「のうかつ」から徒歩5分、米神八幡神社は米神漁港に面して鎮座しています。神社を守る狛犬は、昭和3年に「米神鰤大謀網監督及船方一同」が奉納しました。
5月下旬に開催する祭典では、神輿とともに鹿島踊り(茨城県:鹿島神宮に端を発し、静岡県伊豆半島の東海岸にかけてを中心に分布する民族舞踊)が、奉納される。
小田原市立片浦小学校は、この地区の学び舎。2009年、片浦中学校は廃校となり、小学校も存続が危ぶまれている昨今。地区の回覧板に、片浦小学校校歌が掲載されていました。
作詞:福田正夫。 地域の栄華を偲びます。
『片浦小学校校歌』
1)
緑かがやく相模湾 背負う箱根の山裾に
みかんは実る黄金色 知恵をみがいて育ちゆく
みんな素直な平和の子 明るい片浦小学校
2)
昔 源氏が旗上げた 山は石橋 江の浦の
相生松に望みたて 心合わせて誓い合う
みんな朗らか自由の子 励むは片浦小学校
3)
流れ清らな根府川の 川は白糸 米神は
名高い鰤の網どころ 強くやさしく健やかに
みんな元気な光の子 伸びゆく片浦小学校
「のうかつ小田原」の舞台、
神奈川県小田原市米神。
ここ「米神」とは、
どんなところなのか。
米神の歴史
箱根連山の南端にあり、海陸は断絶壁によって境されている。方寸の平地もないので、往古は農耕は行われず、専ら魚撈とか狩猟で生活が営まれたのであろう。江の浦、石橋辺りから多数石器や土器が発見されているところから、縄文・弥生時代から当地に古代日本人が居住していたことが証明されている。
景行天皇の御代に、大和武尊は東夷征伐の折、相模の地を通過せられたことが、古事記、日本書紀に出ている。これが相模の名が正史にあらわれた最初である。日本書紀によれば、成務天皇の5年に「佐賀牟」(「さがむ」は嶮しの転用)の地は「相模国」(北方山間の地と「師長国」(南方磯辺の地)の二つに分かれた。現在の中郡、足柄下郡は師長の国と思われる。(師長とは磯長の意)
和銅6年(713年)、元明天皇は諸国の郡名を撰定せられた。当地は、「安思我良(あしがら)」と呼ばれた。その後、「安思我良」は上下に分かれ、足上、足下の二郡になった。
平安朝末期「和名抄」(一種の辞書)によれば「垂永郷(たるひごう)」に属し、後に「土肥郷(どひごう)」と呼ばれた。
源 頼朝の石橋山挙兵以来、「早川庄」と呼ばれ、後に北条氏の時代より「相模の国西郡」と云われ、早川村より福浦村までの八ヵ村の海岸を「片浦」と言われるようになり、徳川時代は小田原城の所管となった。
明治2年版籍奉還により小田原県より足柄県となり、明治9年に神奈川県早川他4ヵ村組合村(早川・石橋・米神・根府川・江の浦)になり、大正2年に片浦村(石橋・米神・根府川・江の浦)が分離した。
そして戦後、昭和29年12月に小田原市へ合併され、現在の小田原市米神となる。(『片浦村誌』より)
「米神」は、昔「米嚼(こめかむ)」と書いた。この辺り一帯は岩石が多く、井戸を掘って水を得ることが出来ず、水が乏しかったので生米を嚼むということから、「米嚼」の名が生まれたのであろう。後に、嚼は神と改められた。(『地震と戦争の記録~ふるさと米神』より)
小田原市米神は、JR東海道線の早川駅と根府川駅のちょうど中間地点に位置します。最寄の駅となると、徒歩20分の根府川駅になります。
その根府川駅は、線路脇で赤いカンナの花が揺れ、眼下に相模湾が広がる風光明媚な駅。そんな情景を、詩人の茨木のりこさんが『根府川の海』という作品で、戦争で失った青春への思いを詠みました。根府川駅の待合室には、今も機銃掃射の弾痕が残っています。
根府川駅にあるカンナと同じように、庭先にも赤と黄色のカンナの花が咲いています。私の祖母の弟は、硫黄島で帰らぬ人となりました。
ここ「米神」周辺で、マスコミで話題となった建物がある。
その建物については、名前の変遷が物語る。
1990年厚生労働省の特殊法人「雇用者促進事業団」が、
勤労者福祉施設として総工費445億円をかけて建設を決定。
1998年「スパウザ小田原」として営業を開始。
2004年小田原市に8億5000万円で売却
2005年より「ヒルトン小田原リゾート&スパ」として営業・・・・
豪華な建物は、「米神」をどう見ているのだろうか。
何十年も変わらない数の集落に、
夜になると点々と灯る小さな明かり。
みかんを中心に色づく山々と青い海。
70代、80代、90代の人が、
黙々と畑仕事を中心に汗を流す。
取れたての野菜は、「おすそ分け」し合う・・・
「自然の営み」というものを、ここ「米神」で再考してみたい。